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「体調不良からの脱出」

2010.06.29

3月以降様々な要因から急激に体調が悪くなり、5月の連休に集中的に様々な治療を施(ほどこ)して挽回を計るも、更に悪化し、膨満感と腰痛、風邪と疲労感等に悩まされて来ました。
老荘思想は「自然のまま」をよしとして、そのまま引き受けることと説いているので、これも何かの足しになろうかと日を送って来ました。
陰あれば陽あり。
禍あれば福あり。
霧も大分晴れて来たかの様に思います。
元気とは何か。
宇宙の根源「道」に通じることです。
そのコツがこの間の体調の悪化により、明確に把握出来た様に思います。
苦あれば楽あり、です。
イチローにもスランプありです。
スランプこそ更に一段高い境地を知らせてくれるものです。
ほんとに有難い。
「道」と通じるコツを一言で表現すれば「無」です。
一日の中で一回必ず、無の境地になって道と交通することが大切です。
この時間が実に心地好いもので、自分を忘れるからこそ、真の自分に気付く時です。
旨く生きるとは、この時間を保有し続けることでもあります。
人間が生きて行くということは、肉体の保持ということでもあります。
それは精神と肉体の一致ということでもあり、これがバラバラになってしまうのが病気という状況です。
「無」こそが、この精神と肉体を一致される唯一無比の善い方法です。
もう一段と「無」に向ってつき進もうと思っています。
その結果についてはまた順次報告を致しますので、相変らずお付き合い下さいます様、お願い致します。
「論語の一言」

2010.05.21

「どうせ××するのだから、楽しくやろう。」
 ××のところに、例えば食事、打合せ、仕事、出張など、好きなものを入れてもらいたい。
どうだろう、こうした精神を忘れてはいないだろうか。
 江戸期の人々は、実にこうした精神に溢れて暮していた。
「どうせ生きてるのだから、楽しくやろう。」
 したがって着るものも、「裏は花色木綿」であり、仕事の道具や用具にも、何か一つ心をほっとさせる文様などが施されている。
億劫がらずに楽しむ為に工夫する。
「楽しく暮さなきゃ損」こうした生き方の基本には「論語」の説く教えがあった。
「論語」は、楽しむ為には苦しさから去れといっている。
苦しい事を作らない生き方こそがコツで、様々なケースとその対処法が親切に示されている。
 人間が苦しむことの大部分は、人間関係のトラブルにある。
親兄弟はいうに及ばず、親戚縁者から、隣り近所の住人、職場の同僚、上司、部下、果ては小学校や中学校時代の友人に至るまで、揉め事、争い事のタネは尽きない。
 特に家族間、夫婦や親子の間は、一旦関係が拗れると問題は深刻である。
「骨肉相食む」という恐しい熟語もあるぐらいで、こんな問題を抱えていながら、楽しく暮すなど有り得ない。
 徳川家康が自分の治政を何とか成功させたいと思い、それは大方の国民が「自分は幸せだ」と思うことにあるとした。
そこで社会の基軸に据えたのが、「論語」を代表とする儒教である。
その象徴的人物が近江聖人「中江藤樹」で、藤樹は親孝行で有名であるが、骨肉の争いにならない最大の条件は、親孝行にある。
 まずこれであれば、親子間のいざこざは起きない。
更に孝行息子や娘の兄弟姉妹は、長幼の序が明確になるから争い事など生じない。
そうした家庭が多くなれば、嫁も孝行娘が来るだろうし、義父母に対しても孝行を尽す婿になるから、ここでも問題は起きない。
結婚による他家との結び付きもこの様であるから、トラブルは生じない。
 次に藤樹は「明徳」の重要性を説いている。
この本義は「自己の最善を他者に尽しきること」としている。
こうした精神が身に付いている人間に、隣り近所や職場の上司、部下、同僚との間に悶着など起きようはずはない。
結局、こうして「良い社会」が築けるとした。
家康の炯眼恐るべしであるが、その背後には「論語」の教えがある。
 現代日本社会ほど暮し難い場所はない。
親族は他人の始まりだし、他人を見ればドロボーと思えといわれる。
何事も「効率」一点張りの世の中で、楽しんで仕事するなどという余裕はない。
時間は稼ぐ為にあるといわれ、寸暇を惜しんで金儲けに狂奔し、同僚との売上げ競争に一喜一憂する。
稼いだ人間が勝者といわれ、稼げない人間は敗者といわれる。
この様に金銭物質至上主義の社会の真っ只中に生きているのが、我々現代日本人なのだ。
 そこでどうするか、である。
いまのまま、死ぬまで勝者敗者の争いの中で生きる社会を宜しとするのか、人間らしい暮し、「どうせ生きているのだから、楽しくやろう」が手中に出来る社会にするかだ。
その選択をすべき時がやって来る。
その時の為、家康が理想の社会を求めた「論語」を、しかも現代の様々な問題の解決策を求めるという視点で語っているこの本を、読んでもらいたいのである。
「真の教育改革とは」

2010.04.28

江戸時代の教育と現代の教育、特に幼年教育を比較すると、現代の教育が如何に人間教育の本質から外れているかが良く解ります。
対比してみましょう。

■幼年教育とは何か  
<現代> やさしい事から教える、その年代で必要な知識を
<江戸> 基本をしっかり学ぶ、身に付くのに長時間かかる事を

■こども
<現代> こどもはよりこどもらしく
<江戸> こどもはより人間らいしく 

■学ぶ目的
<現代> より良い進学の為の学力づくり 
<江戸> より良い人生の為の基礎づくり

■教育とは
<現代> 試験に対する教育
<江戸> 人間に対する教育

■教育姿勢
<現代> 教える教育、教師主体、教師の精神的重圧
<江戸> 学ぶ教育、生徒主体、生徒の天性天分の発揮

■結果
<現代> 試験には強いが人間としての基本は出来ていない。時には試験の不合格は人間であることまで否定。
<江戸> 試験には弱いが人間としての基本は出来ている。

つまり江戸の教育は、良識と判断力、自制心と自律、自立を持った社会人の育成を主眼として、それはそんなに簡単なことではなく、幼い頃から長期間かけて行うべきだから、「鉄は熱いうちにうて」で、幼いうちに素地をかためておかなくてはならないということで行われました。
明治以降の近代教育は、まず「旧いことは全て誤りや未熟である」、あるいは「西洋こそが一流」として、江戸の教育を全面否定しました。明治の国家スローガンは「富国強兵」です。これを短時間で成し遂げる為には、何としても一定の技術と能力を持った技術者を多量に必要としました。
教育に要求されることも、こうした人間の即席養成です。だから時間のかかる「人格教育」はまず二の次とし、「技能教育」に徹底し、「立派な人格者の育成」ではなく「すぐ使える技能者の育成」を第一義としました。
その結果我が国は、何と維新から36年で大国清国に勝ち、46年で西洋列強の一国ロシアにも勝利して、世界の大国の仲間入りを果たすという偉業を成し遂げました。このこと自体は称賛してしかるべきことです。
しかしこの両者ともに「僥倖にも」と但し書きを付け、危うく何とか勝ったというべき勝利です。
この事は当時の文献を読めば明らかです。
本来は、一応勝ったのですから、ここで一段落して、根本を考え、戻すべきでした。
つまり「人格教育」へ戻すべきでした。
しかし、ここが日本人の最大の欠点、よくよく心しなければなりませんが、勝ったことをいい事に、傲慢になってしまった。
だから何の根本的反省、修正もなく、そのままにしてしまったのです。
恐ろしいことです。
戦後も全く同じで、敗戦の根本的な原因究明もなく、戦後の復興が旨く行き、経済大国になり、豊かな生活になってしまったらそれでいいとしてしまったのです。
「明治のつけ」と「戦後のつけ」が一挙に突き付けられているのが現在の国家の体たらくの最大の原因です。
したがって結論、
一刻も早く「人格形成教育」に戻すこと。
それは
一、規範形成教育
二、人間の基本形成教育
から成るべきです。
この拙論に賛同下さる方は是非返信を下さいませんか。 E-mail tao@image-plan.net
最早一刻の猶予もありません。
一日過ぎれば一日の誤りとなります。
何としても皆様と、キャッチフレーズばかりの、格好ばかりの教育改革でなく、地に足の着いた確かな成果を得つつ行う活動をしっかりと展開したいのです。
「日本の教育を抜本的に革新する会(「日本教育抜本革新会」)を皆様と共に立ち上げて、何としてもこの国の根本を正そうではありませんか。